また橋下か

なんだか、橋下の話題ばっかりであれなんだけど、またもややらかしたみたい。それともう一つ

もはや開いた口がふさがらないんだけど

共産党が主張を通そうとするのなら、多数派になってから意見してほしい

なんて、民主主義の基本が本当にわかっていない。確かに民主主義の基本は少数意見の尊重であるってことがわかっていない人は多いみたい。以前某巨大ポータルサイト改憲に関する意識調査で議論していたときも「改憲派」と称する人々は大概こんなこと言っていた。まあ、そのへんのネトウヨと同レベルだってのは光市の事件ではっきりしてたけど、知事やってる奴がこんな理解ではお寒い限りだ。それにしても、産経の記事もひどい。「共産党に苦言」って。普通なら批判しなけりゃいけないのに。これ書いた記者は「良くぞ言った」とでも思ってたんだろう。

それから、教育委員会の件。教育は橋下の最重点課題だったはずだけど、前回の「机上の空論」に続いてなんも勉強してないことを露呈してる。テレビのコメンテーターのレベルの低さを身をもって証明しているのだけれど、ほとんどの人は気にもとめないであろうことが予測できて悲しくなる。

ところで教育委員会は中立だから、橋下の発言はとんでもないというのは確かにそうなんだろうけど、言葉のみを批判してもあんまり意味がないように思う。橋下がどうしてあのように考えるに至ったのかということこそ考えなければいけない問題だろう。東京都を初めとして、埼玉県、神奈川県なんかの歴史修正主義大好き知事たちのお膝元で教育委員会が何をやっているかを見れば、知事の意向がそのまま反映する傾向があるのは明らかだ。形の上では中立でも任命権がある限り、知事のお仲間が教育委員会を牛耳るだろうし、非公式に口出しもしているのだろう。このような状況を変えるための一つの方策として、教育委員会の公選制の復活なんてのはどうだろう。戦後すぐはみんな食べていくのに必死で教育のことにまで頭が回らなかったのだろうけど、今現在教育への関心は非常に高まっている。つくる会の教科書の採択率を見れば、歴史修正主義なんかをよしとしている人なんてのは実社会では極少数であるのはおそらく間違いないであろうから、東京都や杉並区のような事態は避けられる公算が高い。

教育委員会の公選制は元々アメリカの制度であるのだが、アメリカでの教育委員会の権限は非常に強大で、人種マイノリティが教育委員会の委員になることは権利獲得のための大きな手段になっている。一例として、1971年のテキサス州クリスタルシティーの事例を紹介したい。

テキサス州クリスタルシティーは小さな町で、人口の大半はメキシカンアメリカンだった。当時公的な差別は市民権法で禁止されていたにもかかわらず、メキシカンアメリカンの高校生は放課後の課外活動(具体的にはアメフトとか)への参加を禁止されていた。白人によって独占されていた教育委員会はこうした差別を禁止せず、黙認していた。

このような状況に、メキシカンアメリカンコミュニティは敢然と立ち向かった。当時、黒人の市民権運動に影響を受けたメキシカンアメリカンの若者たちは、自らを「抑圧されてきた非白人マイノリティ*1」である「チカーノ」と自らを同定し、白人社会の抑圧を糾弾し、南西部をチカーノの手に取り戻すことを目標とした「チカーノ運動」を展開し始めていた。運動の一環として目標に選ばれたのがクリスタルシティの教育委員会のメキシカンアメリカンによる独占であったのだ。

クリスタルシティの運動は見事に実を結んだ。それまで白人によって独占されていた教育委員の椅子をメキシカンアメリカンで全て埋めることに成功したのだ。これによって、高校での差別的な慣行は廃止された。この事件は世間の耳目を集めることとなり、チカーノ運動がますます盛り上がることとなった。

教育委員の重要性は今でも失われていない。現在のロス市長のビジャライゴサの政治家としての活動の端緒はロス市の教育委員会選挙への立候補だった。ここでの活動が認められて彼は有望なラティーノ政治家として頭角を現していき、ついにラティーノ初のロス市長にまで上り詰めたのだ。

現在のアメリカでの教育委員会の重要性は、多文化主義と大きく関わっているのだが、長くなるので省略する。

以上長々と述べてきたけれど、もちろんアメリカとは事情が異なるからそのままうまくいくとは限らない。しかし、近年の教育をめぐる悪い流れを変えるだけの力は持っているような気がするがどうであろうか。

*1:今でこそ、ラティーノは褐色の肌の非白人であるという認識が広まっているけれど、メキシカンアメリカンは伝統的に自らをスペインの伝統を受け継ぐ「白人」であると主張してきた歴史がある。従って、この認識の変化は前世代の戦略を完全否定した非常に重大なシフトチェンジである