続・竹島は日本の「固有領土」ではありません

toremoko2008-05-23

前の記事は随分と反応があった。コメント欄で「ひまじん」という方がwikipediaをソースに反論してこられたので、返答しようと思ったけど、長くなるので一つのエントリにすることにした。

鳥取藩だけが日本ではありません。

竹島は因伯二国に付属すると認識していた幕府の問い合わせに対して鳥取藩が「竹島も松島も関係ありません」と返答し、それを受けて幕府が認識を改めたのが竹島一件の経過です。幕府は鳥取藩の返答に「松島」という言葉があったので、それに関しても鳥取藩に問い合わせています。その際の鳥取藩の返答は、松島は竹島に行く途中に立ち寄って漁をするというものでした。つまり当時の松島は竹島に行く途中の寄港地でしかなかったわけです。こういったやり取りのもとで、竹島への渡海が禁じられているのですから、松島は除外されているという主張は非常に筋の悪いものです。もし、松島は日本のものとすると考えていたのなら、鳥取藩の松島も関係ないという返答に対して何らかのアクションを起こすのが当然でしょう。

また、竹島に関して朝鮮に対して送った公文書の中にも松島は除外すると明確に記すべきでしたが、そういった言及も見られません。鳥取藩の言い分に反論していない以上、幕府も鳥取藩の見解をそのまま受け入れたと考えるのが妥当でしょう。また、安龍福が1696年に来日した際に、「竹島も松島も朝鮮のものである」と主張した事に対しても「松島が日本のものである」と認識しているような反応は一切見られないのは何故でしょう。

竹島と縁が深かったのは密貿易をした石見国浜田藩だったので「付属しない」と幕府に返答したのも当然です。

意味がよくわかりません。幕府と鳥取藩のやり取りは1695年のことで、密貿易事件よりも前ですよ。米子町人である大谷・村上家が「免許状」を得て竹島に出漁していたという事実はお忘れなのでしょうか。それだからこそ、幕府も鳥取藩に問い合わせたのでしょう。

そもそも渡海禁止令は再度の密貿易を防ぐためであり、領土問題に結びつけた内藤氏の解釈が無理があると思います。

そもそも竹島一件の発端も竹島において朝鮮人と日本人が遭遇することがあるということから発しています。つまり密貿易の温床となる可能性があるというものです。幕府の鎖国政策という文脈で考えたときに、竹島は禁じるが松島は除外するというのは明らかにおかしいものです。なぜなら、松島でも密貿易ができるのですから。松島を日本のものであるとし、その上で密貿易を禁じるには、朝鮮人が近寄らないように朝鮮と話を付けるもしくは定期的に見回りをする必要がありますが、幕府は渡航を禁止しただけです。ひまじんさんの挙げた根拠は全くの逆の意味を持つと考えられます。

竹島鬱陵島)外一島」の中に、松島が含まれている証拠はありません。

1877年の太政官布告が出された背景として1876年に青森県人武藤平学や千葉県人斉藤七郎兵衛が提出した「松島開拓願」を考える必要があります。この松島は明らかに鬱陵島のことを指しています。同時期に島根県士族戸田敬義によって出された「竹島渡海願」は検討されることもなく却下されましたが、斉藤らのいう「松島」がどこを指すのかが不明であるために、検討されることとなったのです。

外務省の「松島巡視要否ノ議」において、記録局長渡辺洪基は以下のように提案しています。

昔は竹島関係の記事が多く、松島について記したものはない。これは二つの島なのか、或は一島に二つの名前があるのか、諸説がいろいろあって政府部内ではどちらが正しいか決するものがない。かの竹島は朝鮮の鬱陵島であり、幕府の時代に消極的姿勢の結果として朝鮮にまかせることにした。故に、ここでいう松島が竹島であれば朝鮮のものであるし、竹島以外の松島であるとすれば日本のものになるが、これを決定するものはない。そのため島根県に照会して、これまでの歴史的経過を解明し、併せて船を派遣して実際を検分する・・・

つまり、ここで問題とされているのは「松島」が実際にはどこを指すのかであり、渡辺は松島が鬱陵島ではないなら、日本のものであると述べています。この時点で政府は松島(現竹島)のことを明確に把握していたわけではなかったのです。

同年内務省が地籍編纂の関係上島根県に「竹島外一島」の所属について島根県に照会しました。その結果島根県としては、島根に編入すべきと回答しましたが、内務省は更なる調査の結果「竹島外一島」は関係ないとしたわけです。その際に添付された「磯竹島略図」には松島として、現在の竹島が描かれています。この地図では「磯竹島」と「松島」が同様に強調して描かれています。それに対して隠岐朝鮮半島は薄く描かれています。もし竹島外一島の一島が鬱陵島のすぐ横にある竹嶼を指しており、松島は日本のものであると考えているのであれば、何らかの注釈を付けるはずですが、そういったものは見当たりません。地籍編纂がもともとのきっかけであるですから、鬱陵島ではない「松島」が存在していると認識し、なおかつこの島を日本のものであると考えていたのであれば、この時点で島根県編入しないことの理由がわかりません。

これらのことを総合的に考えれば、竹島外一島に現在の竹島が含まれていたと解釈する方が妥当でしょう。

ちなみにwikipedia竹島外一島では太政類典第二編を分析して

本文に書かれている「竹島」の状況や島の周囲の大きさ、位置関係の比からすると「竹島外一島」は「鬱陵島と松島」を示していると考えられるが、実際の距離は隠岐から鬱陵島まで約250km、隠岐から現在の竹島まで約160kmなのでこの記述の距離とは大きな差がある。

と書き、結論として

従って、1877年の「竹島外一島」とは、文中の竹島〜松島〜隠岐の距離の比や本文中の状況からいえば、鬱陵島と現在の竹島を意味している事になるが、その距離からいえば鬱陵島の北西に描かれた「架空の竹島(アルゴノート島)」と「現在の鬱陵島の位置に記載されている松島」を意味していることになる。

と書いていますが、実際には存在しない「架空の竹島」の状況を本文中に詳述しているというのはいったいどうしてでしょうか。実際にどのように描写されているのかといえば、

「磯竹島竹島と呼ぶ。隠岐国の北西120里にあり、周回およそ10里、山は峻険で平地は少し、川は3本あり又瀑布がある。・・・次ぎに一島ある。松島と呼ぶ。周回30町、竹島と同一路線にあって隠岐から80里ある。木や竹は稀で又魚や獣が獲れる。・・・」

松島が鬱陵島であるとするならば、ここでの松島の描写は明らかにおかしいですね。この文章を書いた人が竹島鬱陵島、松島を現竹島と認識していたことは明らかです。これを距離の違いだけを理由に「架空の竹島」を持ち出すのは非常に筋の悪い強引な解釈に思えてなりません。まるで歴史修正主義者の解釈のような。



最後に。僕が紹介したのは内藤正中の本のごく一部です。この本では川上健三や下条正男などの論に対して論拠を挙げて批判しており、また、于山島の変遷や安龍福の件も川上らの論を徹底的に批判したうえで詳しく論じられているので、反論するのであれば、本を読んでからそれに即してお願いします。